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Hiwattの配線は、英国海軍の仕事をしていた工房が請け負った。注文ごとに違ったアンプが、一つの回路図になるまで

2026-09-30

Hiwattといえば、大音量でも崩れないクリーンである。だが最初期のHiwattは一つの音ではなかった。Dave Reevesは客の注文を受けて作り分け、MarshallやFenderに似たトーン回路の個体まであった。それが一つの回路図に固まったのは1971年、配線を英国海軍の仕事をしていたHarry Joyceの工房へ外注したときである。標準化はHiwattの音を固定し、生産を広げ、設計者の死後も残った。そして1980年代の初め、残された社員はその標準の前に増幅段を1段と、Overdriveのつまみを1つ足した。

Hiwattといえば、大音量でも崩れないクリーンである。

Pete Townshend。David Gilmour。ステージの背後に壁のように積まれたヘッドとキャビネット。 MarshallやVoxと並ぶ英国の大出力アンプで、歪みよりもヘッドルームを取った設計。そこまではよく知られている。

だが、最初期のHiwattは一つの音ではなかった。

設計者のDave Reevesは、客の注文を受けて作り分けていた。中には、MarshallやFenderに似たトーン回路を持つ個体まであった。

それが一つの回路図に固まったのは、1971年である。 きっかけは設計の刷新ではない。配線の外注だった。引き受けたのは、英国海軍向けの配線を請け負っていた工房である。

この記事は、Hiwattを音色ではなく製品として追う。 注文品だったアンプが、いつ、どうやって一つの製品になったのか。そして設計者がいなくなったあと、その製品に何が足されたのか。

Reevesが最初に作っていたのは、注文ごとのアンプだった

Dave Reevesは、英国の真空管メーカーMullardで修理の仕事をしていた。 空軍で電子技術の訓練を受けた人で、修理に回ってくるアンプの多くが雑に作られ、手荒な扱いに耐えられないことに気づいていた。

1966年にMullardの人員整理で職を失い、Reevesは自分のアンプを一から設計し始める。 同じ年の9月、会社の名前としてHylightを登録した。Hiwattはそのブランド名である。

最初期の設計は、のちのHiwattとはだいぶ違う。 1964年にHiwattの名で作られた個体は、出力管のスクリーングリッドにウルトラリニア・タップを使い、操作パネルをキャビネットの上面に置いた分割シャーシの50Wヘッドだった。見た目も設計も、後年の英国型というより、当時のVoxやSelmerに近い。

いっぽうで、最初から変わらなかったものもある。 Partridgeのトランスと、Mullardの真空管である。どちらもMullard時代に中身を知り尽くしていた部品だった。

会社を回すため、ReevesはIvor Arbiterの楽器店Sound Cityと契約し、Sound City銘のアンプを作った。中身はReeves自身の設計で、名前だけが違う。 1967年、Marshallと揉めたThe WhoのTownshendとJohn EntwistleがSound Cityを使い始める。

1968年の末、The WhoはSound Cityのアンプに少し手を入れてほしいとArbiterに頼んだ。Arbiterは断った。 引き受けたのはReevesである。こうしてカスタムのSound City L100が作られ、Sound Cityとの契約が切れたあと、Hiwatt銘でDR103 Custom 100と名付けられた。この時代にいちばん売れたHiwattになる。

のちにArbiterは、設計を盗んだとしてReevesを訴えた。 法廷でReevesは、シャーシに空いている使われていない穴の意味を、Arbiter側の技術者に尋ねた。答えられなかった。自分たちが作っていたのは、Reevesの設計したシャーシの写しだったからである。訴えは退けられた。

この頃のHiwattは、Surrey州New Maldenの自宅ガレージで作られていた。 販売は問屋や楽器店を通さず、演奏家へ直接。中抜きされる分を、会社を育てる資金へ回すためである。

そして、客の注文を聞いた。 その結果、この時期のHiwattは個体ごとのばらつきが大きい。MarshallやFenderに似たトーンスタックを持つ個体まである。 Sola Soundのように、他社のためにアンプを作る仕事も請けていた。

つまり1960年代末のHiwattは、ブランドというより、Reevesという一人の技術者の判断だった。 頑丈で、ノイズが低く、音量に余裕がある。その方向は一貫している。だが回路の細部は、客ごとに違っていた。

1971年、配線が外へ出た

1970年代に入ると、Hiwattは急速に広がる。 元バンドのロード・マネージャーだったPeter Webberが営業に就き、国じゅうを回ってバンドに実機を弾かせた。The Who、Pink Floyd、Jethro Tull、The Moody Blues、Manfred Mann。 Jethro TullのGlenn Cornickの求めで、200W、のちに400Wのアンプも作られた。 1970年2月、The Whoが『Live at Leeds』を録った夜、ステージにはHiwattが並んでいた。

注文は、ガレージの生産能力を超えた。

アンプを作る工程のうち、いちばん重く、時間を食うのはシャーシの配線である。 ここで確かめておきたいのは、配線を束ねて直角に曲げる、Hiwattのあの整った内部は、外部の人間が入る前の1969年の時点ですでに使われていたことだ。整頓はReeves自身の流儀だった。

1971年、Reevesはその流儀を再現できる配線業者を、電話帳で探した。 見つけたのがHarry Joyceである。

JoyceのHarry Joyce Electronicsは当時、Gravesby Instruments Ltd.との契約で、英国海軍向けの配線を請け負っていた。妥協のない仕上がりと品質管理を求められる仕事である。 Joyceは技術学校を出たばかりの若い技術者を自ら選び、軍用規格の配線作法を叩き込んでいた。

Joyceは最初、乗り気ではなかった。 Reevesに説かれて引き受けたとき、条件を一つ付けた。月に40台を超えて作らせないこと。品質を保つためである。Reevesは渋々のんだ。

ここで回路図が標準化された。 それまでのばらつきは消え、Hiwattは「大きくて、ヘッドルームの広い機械」という評判を固める。

標準化の意味は、音が決まったことだけではない。 Reevesの頭の中にあった判断が、外部の工房で再現できる図面と作法になった、ということである。

実際、配線をしたのはJoyceの工房だけではない。Joyceが月あたりの台数を絞ったため、他の業者や社内の人間が配線した時期もある。 シリアル番号の幅から見ると、1969年に約260台だった製造が、1971年には約1,000台、1974年には約3,000台に達している。Joyceの上限だけでは届かない数である。 図面と作法が一つに決まったから、手を増やせた。

1972年1月には、ガレージから、隣町Kingstonの元パン工場を改装した建物へ移る。 シャーシには配線した工房の印がペンで書かれ、内側には「T/S」、Tested and Soaked(試験し、エージングした)の書き込みが入った。

この時期のラインナップは「All Purpose Amplifiers」と呼ばれた。 50WのDR504、100WのDR103、200WのDR201、400WのDR405。 そしてもう一つ、5バンドのグラフィックEQとファズ系の歪みを内蔵した195Wのソリッドステート機、NCA 108。 真空管の大出力クリーンを看板にする会社が、同じ時期に、歪みを内蔵したトランジスタ機を並べていた。Hiwattの製品群は、最初から一つの音だけで組まれていたわけではない。

標準化されたDR103は、Marshallと同じつまみで、別の回路だった

一つに固まったDR103は、外から見るとMarshallによく似ている。 Bass、Middle、Treble、Presence。Marshall自身がFender Bassmanから受け継いだ並びである。 出力管も、Marshall Super Leadと同じEL34だ。

だが中身は、ほとんど別物である。

トーンスタックは、MarshallやFenderとはまったく違う位置に置かれている。 増幅段は4段で、当時のFenderやMarshallの代表的な構成の3段より多い。コンデンサの値は、ほぼすべての位置で違う。 そして位相反転段に、ECC81(12AT7)を使う。増幅率の低いこの球が、出力段を押し込む力を弱め、そのぶん出力段にヘッドルームを残す。 そこへ、当時のギターアンプとしては異例に大きいPartridgeのトランスが組み合わさる。

歪みの少ない大音量は、つまみの並びからは読めない。 同じつまみ、同じ出力管で、ドライブをどこで使い、どこで残すかの配分が違う。Hiwattのクリーンは、その配分の結果である。

組み立ても同じ思想で揃っている。 Hiwattはポイント・トゥ・ポイントではなく、ターレットを立てた一枚の頑丈なタグボードに部品を載せた。信号の流れが見て追えるので、点検も修理もしやすい。内部の配線は他社よりも多くシールドされ、ノイズを低く抑えた。キャビネットは14層のバーチ合板で、さねはぎで組まれている。 1971年に標準化されたのは、回路図だけではなかった。配線の作法、部品の供給元、箱の作り方までを含む、一式の製造基準である。

背面のSlave端子も、この考え方の延長にある。 Slave端子はスピーカー出力から直接信号を取り出し、プリアンプもトーンも持たないSlave機を鳴らす。音色は親機で一度決め、あとは音量だけを増やす。 音を決める場所を一か所に保つ設計である。

注文品は、標準の外に残った

標準化で、注文ごとの作り分けは終わった。 ただし、全部が消えたわけではない。いちばん有名な客のための特注機は、標準の外に名前を変えて残った。

Townshendのために作られたCP103は、DR103の電源と出力段を使いながら、4つの独立した入力、初段、ボリュームを持つ。そのうち2つは明るめの音に作られている。トーン回路は大きく違い、MiddleとPresenceが無い。 この構成は、Sound City時代の初期Hiwattの設計を再現したものである。のちのCP103の前面パネルには「CUSTOM HIWATT 100 "The Who"」と書かれた。

GilmourのためのDG103は、DR103をわずかに変えたものである。 Brilliant、Normal、そして両方のチャンネルを同時に鳴らす連結入力を持つ。工場出荷の時点でこうなっていたのか、新品のときから面倒を見てきたPete Cornishが改造したのかは、資料の側でもはっきりしない。

興味深いのは、Townshendの特注機が、標準化以前の設計へ戻っていることである。 Hiwattを世に広めた当の人物が求めたのは、標準になったDR103ではなく、それより前のSound City期の回路だった。

標準化によって、「特注」という区分が初めて生まれたとも言える。 それまでは全部が注文品だった。標準ができたから、そこから外れるものに名前が要るようになった。

1977年、入力が2つになり、ゲインが少し上がった

標準は固定されたまま止まっていたわけではない。 Hiwattの設計は1970年代を通じて、業界の好みの変化に合わせて少しずつ変わっていった。フットスイッチを備えた「SAP」のような変わり種も、短期間だけ現れている。

目立つ変化は、1977年の末に来た。 入力が4つから2つになった。回路もわずかに変わり、ゲインが少し上がった。位相反転段の球は、ECC81からECC83(12AX7)へ替わる。

先に見たとおり、ECC81の位相反転段は、DR103のヘッドルームを支える要の一つだった。 1977年に最初に緩められたのは、まさにそこである。入力の数とともに、出力段へ渡すドライブが少し増えた。

1979年頃からはプリント基板が使われ始め、フィルター・コンデンサもシャーシの内側へ移った。 それでも、構造と配線の基準は同じものが守られた。基板になっても、作法は変わらなかった。

1981年、設計者がいなくなった

1981年の初め、Reevesは階段から転落して亡くなった。

Reevesは子どもたちに会社を継がせるつもりだった。だがそうはならず、会社は弁護士の管理下へ移った。

製造を続けたのは社員たちである。 事務を担っていたMary Cliffordが、他の社員とともにBiacrown Ltd.を設立し、Hiwattを作り続けた。工場はSurbitonへ移った。 使ったのは、1981年時点と同じ材料と同じ工法である。Hylightの銘板も、しばらくはそのまま使われた。手元の在庫を使い切るまでだったと見られている。

だが、Biacrownの資金繰りは苦しかった。 支払いが滞り、既存の取引先が出荷を止めた。いちばん大きな変化はトランスで、長年のPartridgeから、DrakeとSowterへ切り替わった。 Harry Joyceも、支払いが無いことを理由に配線をやめた。

1984年の初め、Biacrownは扉を閉じた。

Biacrownは、標準の前に1段とつまみを1つ足した

短いBiacrownの時代に、Hiwattの回路にはいくつかの「実験」が加えられている。

「OL」は、DR型に増幅段を1段足したものである。通常よりプリアンプで歪ませることができる。OLと書かれたのは銘板だけで、パネルの見た目は変わらない。 「LEAD」は、そのOLと同じ追加段の手前に、もう一つボリュームを置いたものである。このつまみには「OVERDRIVE」と書かれた。Biacrown期の後半に作られ、前面パネルには「HIWATT LEAD 100」「HIWATT LEAD 50」と記された。

背景には、当時の好みがある。 これはMarshallがJCM800の2204を作っていた頃で、その好みに合わせてゲインを足した、とする資料がある。

ここで注目したいのは、足し方である。

Biacrownは、DR103を作り直さなかった。 標準のDR型をそのまま置き、その前に増幅段を1段と、つまみを1つ足した。 1971年に固まった回路図は、土台として残された。歪みは、その上に載せる部品として扱われた。

その結果、LEADは一台で二つの顔を持つ。 Biacrown期の個体を旧型と同じか、それ以上に好む愛好家もいる。古いHiwattの、あのごくクリーンな音も出せるし、少し毛羽立ったオーバードライブも出せる。その間のどこでも出せるからである。

一つの大音量を量産するために固められた標準は、10年後、複数の音を出すための土台になった。 変わったのは土台ではなく、その前に置かれたものだった。

名前が離れたあとに残ったのは、製造の基準だった

Biacrownが閉じたあと、Hiwattの名前は別の会社へ渡り、そこから先は別の歴史になる。 この記事は、その名前の行方を追わない。追うのは、Reevesの設計と製造の基準がどこへ行ったかである。

まず、Joyce自身である。 Joyceは1990年代の初め、自らHiwattに近いアンプを作った。トランスは、Biacrownの末期と同じDrakeを使っている。

次に、Reevesの家族である。 2006年、Clayton CallawayとMark Hussが、Reevesの息子Glynnと組んで、米インディアナ州ColumbusにHi-Tone Amplificationを設立した。目的は、元のブランドの製造基準に忠実に、Hiwatt型のアンプを作り直すことである。 2018年には、Andrei NiculaがHylightの名前の権利を買い、新しいHiwatt型のアンプを作り始めた。

後継者たちが復元しようとしたのは、音色そのものではない。製造の基準である。 Partridgeのトランス、ターレットボード、配線の作法、箱の組み方。1971年にReevesとJoyceが一式として固めたものだった。

これは、標準化がなければ起こりえなかった。 注文ごとに違うアンプのままであれば、Reevesの判断はReevesと一緒に消えていた。一つの回路図と一つの作法に固まっていたから、社員が引き継げた。配線職人が自分の名前で作れた。息子とその仲間が、半世紀後に同じ基準で作り直せた。

まとめ

Hiwattの歴史は、二度の転換で読める。

1971年、注文ごとに違ったアンプが、一つの回路図と一つの製造基準になった。 英国海軍の配線を請け負っていたHarry Joyceの工房が、Reevesの整った配線を外で再現する作法を引き受けた。図面と作法が決まったことで生産は広がり、「Hiwattの音」という一つの像ができた。

1981年、設計者がいなくなった。 残された社員は標準を作り直さず、その前に増幅段とOverdriveのつまみを足した。一つの大音量のために固めた土台は、複数の音を出すための土台として使われた。

大出力のクリーンは、Reevesの耳が選んだ音だった。 それを一台ごとの判断から、誰でも同じ手順で作れる基準に変えたのは、1971年の外注である。その基準があったから、Hiwattは設計者より長く生きた。 名機の音と呼ばれるものは、ときに、一人の判断を他人の手へ渡せる形にした、その手続きの産物でもある。


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