Steve Howeの演奏を聴くと、多くの人が同じところで引っかかる。
テンポが、少し怪しい。
走っているのか、もたついているのか。それとも、わざとそう弾いているのか。
面白いのは、この引っかかりが聴き込むほど消えないことだ。むしろ深くなる。
この記事では、Howeの「怪しさ」を、下手さや即興の揺れとしてではなく、ひとつの演奏思想として聴き直す。鍵になるのは、拍のどこへフレーズを差し込むか、という時間の感覚である。
テンポが怪しい、という第一印象
Howeのフレーズは、音符をいつも拍の中心へジャストに置くわけではない。フレーズの始まりと着地が、拍の前後へずれるように聴こえる。
これは観察であって、まだ結論ではない。「走る・もたる」という単純な揺れとは違う、という感触がある、という段階の話だ。
比べやすい例が二つある。Yours Is No Disgraceの冒頭のギターと、時代も編成も離れたAsia期のHeat of the Moment終盤のソロ。同じ弾き手の、同じ傾向を、離れた年代で聴き比べられる。
事実として押さえておきたいのは、独立した楽曲分析で、Yours Is No Disgraceの冒頭が、拍子を変えないままダウンビートを聴き手に誤認させる例として記譜されている、という点だ。つまり「怪しさ」は、聴き手の気のせいだけではない。譜面の上でも起きている。
自由に聴こえて、再現できる
もしこれが単なる気まぐれな揺れなら、演奏のたびにばらつくはずだ。
ところが、Howeは特徴的なフレーズと、その時間の置き方を、ライブでも高い再現性で弾く。ここが、無計画な即興や偶発的なズレとは考えにくい理由になる。
この再現性を、こう分けて考えると見通しがよくなる。
内部。細かいサブディビジョン、固定された運指とアタックの順序、繰り返せる譜割り。
表面。長いスライド、音量の増減、小節線をまたいで伸びる持続音。
結果。自由に浮遊しているように聴こえるのに、ライブで同じ輪郭をなぞれる、という状態。
長く伸びるスライドやボリューム奏法で、表面上は自由な時間に聴こえても、その下ではもっと細かいリズム単位で譜割りされている――そう考えると筋が通る。ここは仮説である。だが、この「制御された非対称性」という見方は、Howeの演奏の多くをうまく説明する。
Howeは、即興そのものを志向する奏者というより、即興に聴こえる自由度を、作曲済みの演奏として固定する奏者ではないか。
設計なのか、天然なのか
ここで問いが二股に分かれる。
再現できるということは、それが安定した様式だということだ。しかし、それが本人によって理論的に設計されたものなのか、長年の運指・聴取習慣・身体感覚から自然にそうなっているだけなのかは、別の問題である。
この区別を、無理に解決したくない。
Howeの面白さは、精密に組み立てられた演奏と、本人にとっては自然にそう弾いているだけかもしれない「天然の異質さ」が、同時に感じられるところにあるからだ。
聴き手の頭の中では、たいていこんなループが回る。
テンポが怪しい。わざと外しているのか。いや、ライブでも再現している。では設計なのか。いや、本人には自然なだけかもしれない。結局わからない。もう一度聴く。
Howeの演奏は、「正確/不正確」「意図/事故」のどちらにも確定しない。この解釈の振動そのものが、繰り返し聴きたくなる引力になっている。判別できないことは、評価できないこととは違う。ここでは、判別できないこと自体をHoweの中心に置く。
Howe一人の手柄ではない
ただし、Yesの時間感覚をHoweだけの功績にするのは、慎重に避けたい。ここは反論として正面から置いておく。
Yesの作りは、共同建築だ。AndersonとHoweが曲の全体像と断片を出し、Squireがベースとハーモニーと細部の精度を長い時間をかけて詰める。Brufordが非対称な拍と反応を与え、Tony KayeやRick Wakemanが和声と音響の規模を広げる。そしてEddy Offordとのスタジオ作業が、断片を一つの録音作品として固定する。
だから、こうも言える。BrufordとSquireのリズム設計があったからこそ、Howeのずらしたタイミングが成立した。相互作用として、新しいYesの時間が生まれた。
セクション単位の録音や編集といった制作の方法が、演奏上の非対称性を後から強調した可能性もある。
ライブでの一致にしても、厳密なリズムの再現ではなく、目印になるフレーズや運指、エフェクト操作が共通することで生まれる聴覚的な印象かもしれない。
これらは、Howeを唯一の作者にしないための重しである。彼が持ち込んだ色と、みんなで組み上げた構造は、分けて考えたほうがいい。
ギターを、一つの色として使う
Howeを語るとき、機材の遍歴は避けて通れない。ただし、ここでの関心は「何を使ったか」ではなく、「同じ人物が、違う音色にどんな役割を与えたか」にある。
HoweはES-175、Telecaster、Stratocaster、スチールギター、各種のアコースティック、12弦と、構造も出力特性も大きく違う楽器を、曲と時代に応じて使い分ける。
それでも、演奏者としての輪郭は安定している。
つまりHoweの同一性は、特定のギターやアンプの音そのものにはない。アタック、譜割り、音の長さ、ボイシング、そして音色をどこへ置くか――そこに宿っていると考えられる。
本人はRelayerを、Telecaster中心の非常にFender的な作品だと説明している。一方で、Asiaを含む時期を経て、ES-175を中心的な楽器として再認識した、とも回想している。使う道具は動くのに、演奏の芯は動かない。
Asia期に前に出てくる積層されたディストーションも、従来の音を捨ててディストーション奏者へ転向した、という話ではないだろう。むしろ、歪みを新しい一色として、既存のパレットへ加えたと解釈できる。ここは解釈である。念のため付け加えると、その歪みはHowe個人の選択だけでなく、当時の制作方針や作曲、1980年代初頭の商業ロックの音響規範にもよる。
こう見ると、機材の変更はHoweの様式の断絶ではない。異なる道具を使っても、それぞれの音色へ曲中の役割を与えるオーケストレーションの発想が一貫している。Howeの「安定したサウンド」とは、周波数特性の固定ではなく、音色を配置する文法の安定なのだ。
The Yes Albumで、何が変わったか
事実を一つ。The Yes AlbumはYesの第3作であり、Howeが参加した最初のスタジオアルバムである。そして、この作品の鍵盤奏者はRick WakemanではなくTony Kayeだ。
ここは取り違えられやすい。Yesの「あの構築的な音」を、しばしばWakemanの加入と結びつけて語ってしまうからだ。
だが、HoweはYours Is No DisgraceやStarship Trooperの作曲と素材提供に関わっている。つまり、Yesの語法が動きはじめた変化の一部は、Wakemanが来るより前に、すでに起きていた。
この順番は、Howeを「時代の世界観を設計した側」に位置づけるうえで効いてくる。
Sound Chaser――鍵盤奏者が代わっても残ったもの
Relayerでは、Wakemanに代わってPatrick Morazが参加した。Sound Chaserは全メンバーの共作としてクレジットされている。Moraz自身、加入時点ですでに書かれ演奏されていた音楽があった一方で、イントロや最終的なアレンジには関わった、と回想している。
注目したいのは、鍵盤奏者が代わっても、Yesらしい時間の作り方が残っている点だ。
Sound Chaserは、クラシック風のフリーテンポ、ボリューム奏法、スライドを交えたリフ、声を打楽器のように使った集団的な応答、そして切り替わり続けるギターソロで、一曲の内部に複数の時間と音響空間を作る。
なお、この声の反復はバリ島のケチャを思い起こさせる。ただし直接の影響関係は確認できていない。ここは聴感上の連想にとどめ、断定しない。
90125という反証――Howe不在のYes
ここで、自分の見立てにとって都合の悪い事実を置く。
90125は、Steve Howe不在、Trevor Rabin初参加、Jon Anderson復帰という編成で制作された。公式のバンド史では、Squire、White、Kaye、RabinによるCinemaの素材にAndersonが加わり、Yesとして再編された経緯が説明されている。
それでも、この作品はYesとして通用した。
これは、Howeがいなければ成立しないほどYesの不可欠な識別子だ、という見方への反証になる。
では、Yesらしさはどこにあるのか。階層で考えると整理しやすい。
最小の識別子は、Jon Andersonの声。Howe不在の90125でも、Andersonが歌うことでYesと認識できる強度が生まれる。
継続する身体は、SquireとWhiteを中心とするリズム、コーラス、低音の輪郭。
そして70年代的な世界観が、Howeの非対称な時間感覚、多種の弦楽器による音色パレット、ギターを編曲装置として扱う発想である。
だから、Howeを「Yesらしさそのもの」とする必要はない。Andersonの声がバンドの同一性を成立させ、Howeがクラシック期Yesの世界観を色濃く設計した――この二層で捉えたほうが、事実と噛み合う。
ひとつ補足しておく。ここでいう「Andersonの声」は、本人の在籍だけを指さない。DramaのようなAnderson不在期でも、後任の歌手が高い声域や母音の響き、旋律の置き方といったAnderson型の役割を引き継いでいる。だから「Andersonがいなくてもよかった」という単純な反証にはならない。むしろ、本人が不在でも声の型を代行しなければYesとして成立しにくかった、という可能性のほうを検討したくなる。
「上手い/下手」で聴かない
Howeを、テクニックの上手下手や、テンポの正確さで測ろうとすると、たいてい行き止まる。
走っているのか、設計なのか。事故なのか、意図なのか。どちらにも確定しない。
その確定しなさは、欠点ではない。聴き手の判断を循環させ、もう一度再生ボタンを押させる仕掛けになっている。
念のため線を引いておくと、ここでミリ秒単位のズレを測ったわけではない。ライブ版とスタジオ版を定量的に並べて比べたわけでもない。それらは、やれば面白いが、この記事の主張の前提ではない。主張の前提は、もっと素朴なところにある――同じ弾き手が、離れた時代でも、似た時間の置き方を、似た再現性で弾いている、という聴取の事実だ。
Howeの演奏は、正確さの物差しの上には乗らない。乗らないまま、繰り返し聴かせる。
わからないから、もう一度聴く。その一巡が起きているなら、それはもう、時間を設計した演奏の側が勝っている。