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Robert Frippは、Peter Gabrielの1stに「自分はいなかった」と言った

2026-10-09

1977年のPeter Gabrielの1stには、Robert Frippが参加している。目立たない演奏は、強い個性を持つギタリストが曲のために自分を抑えた好例として語られやすい。だがFripp本人は翌1978年、このアルバムに自分は本当はいなかった、全体を仕切ったのはプロデューサーのBob Ezrinだったと語っている。いっぽうで、名前を伏せて参加したいと望んだのはFripp自身で、アルバムではそれをプロデューサーに断られた。音が消えたことと、名前を消そうとしたことを分けると、「Here Comes the Flood」がなぜFrippの『Exposure』で録り直されたのかが見えてくる。

1977年2月、Genesisを離れたPeter Gabrielが最初のソロアルバムを出した。

題名は無い。のちに、ジャケットの写真から『Car』と呼ばれるようになる。

このアルバムには、King Crimsonを率いていたRobert Frippが参加している。

このアルバムでのFrippは、目立たない参加として語られることがある。

こういうとき、よく使われる説明がある。強い個性を持つ演奏家が、曲のために自分を抑えた。目立たないことも、演奏家の貢献である。

美しい説明である。間違っているとも限らない。

ただ、Frippは翌1978年のインタビューで、このアルバムについてまったく違うことを言っている。

Robert Frippは、Peterの1stには本当はいなかった。

自分のことを三人称で、そう言っている。

本人は「想像力の出番は限られていた」と言った

1978年10月末、Frippはフランスの音楽誌『Best』の取材を受けた。

Gabrielとの仕事が最初の音楽活動だったのか、と聞かれて、Frippは「ある意味ではそうで、ある意味では違う」と答えている。

Robert Frippは、Peterの1stには本当はいなかった。自分はあまり貢献していない。

ツアーに出ることは引き受けたが、それは暗いところで、観客から見えずに弾くという条件付きだった。

自分の想像力の出番は、本当に限られていた。すべてを仕切っていたのは、プロデューサーのBob Ezrinだった。

そして、続けてこう言う。

2ndでは、自分の創造的な役割はずっと大きかった。実のところ、この2枚の違いはFrippである。制作のスタイルがまったく違う。

1stの制作については、さらに強い言葉を使っている。

まったく好きではない。下品で、繊細さに欠け、アメリカ的すぎる。何より、Peter Gabrielの本質を完全に取り逃がしている。

ここで言われているのは、自分を抑えた、ではない。

抑える以前に、自分の出番が無かった、である。

1stは、Ezrinの選手団で作られた

1stがどう作られたかを見ておく。

Gabrielは1975年にGenesisを離れたあと、しばらく家族との生活を優先した。曲を書き始めたのは翌1976年である。

プロデューサーの候補には、Todd RundgrenやJack Nitzscheの名前もあった。最終的に決まったのが、Alice Cooper、Lou Reed、Kissの仕事で知られていたBob Ezrinだった。

二人は制作を分担した。Ezrinは「アメリカ的なリズムセクション」と「とてもロックな部分」を、Gabrielは「よりヨーロッパ的なもの」と「静かな部分」を受け持った。

録音は1976年の秋、トロントのThe Soundstageで行われた。ロンドンのMorganとOlympicでも追加の録音がある。

演奏者の多くは、Ezrinが集めた。ドラムのAllan Schwartzberg、パーカッションのJimmy Maelen、ギターのSteve Hunter。彼らの多くは、Lou ReedやAlice Cooperのレコードですでに一緒に演奏していた。

Gabrielが自分で選んだのは、シンセサイザーのLarry Fastと、Frippである。Gabrielの、音響的な風景を作るような発想を受け持つためだった。

Ezrinは後年、Frippが加わった経緯をこう振り返っている。

Peterは自分と交渉して、英国人を一人入れていいかと聞いてきた。サッカーのクラブがストライカーを欲しがるような、移籍の交渉をしている気分だった。

この言い方は、そのまま当時の構図を表している。

チームはEzrinのものだった。Frippは、Gabrielがその中へ一人だけ持ち込んだ、外から来た選手だった。

トロントのセッションで、Ezrinは首にホイッスルを下げていて、演奏が気に入らないとセッションミュージシャンに向けて吹いた、とFastは回想している。

セッションが終わると、Ezrinは演奏者たちに贈り物をした。Frippに贈られたのは、金のアンティークの懐中時計だった。

「Here Comes the Flood」のリードは、Frippではない

1stの最後に置かれているのが、「Here Comes the Flood」である。

Gabrielが、Ezrinとの最初の顔合わせで聴かせたデモの曲でもある。Ezrinはこの曲を気に入って、その夜は旋律を口ずさみながら寝たという。

1977年版の編成を見ると、Frippのクレジットは「エレキギターとクラシックギター」である。

もう一人、エレキギターにDick Wagnerがいる。

弦はロンドン交響楽団で、指揮はMichael Gibbsである。

この曲のリードギターについては、Wagnerの演奏だとする評がある。いっぽうで、ソロをSteve Hunterの演奏として書いている評もある。どちらの評も、前に出るギターをFrippのものとはしていない。

のちにFrippが自分のアルバムで録り直すことになる曲で、1st版の前に出ているギターはFrippではない。

名前は、Frippが自分で消そうとした

では、Frippは目立ちたかったのか。

そうではない。同じインタビューに、もう一つの話がある。

気難しいという評判について聞かれて、Frippは名前の話をしている。学校から出てきたとき、自分は別の人間になっていたので、名前を変えたいと思った。Robert Frippという名前に付いて回る連想にも疲れていた。

そして、こう続ける。

Peter Gabrielの1stでは、変名を使うことで合意していた。だがプロデューサーが断った。それで最終的に妥協して、自分の名前を使った。

ここでいう学校とは、Frippが通っていたAcademy for Continuous Educationのことである。Frippは同じインタビューで、そこを出た日を1976年7月21日としている。トロントの録音は、その数か月後である。

アルバムのクレジットで名前を伏せることは、かなわなかった。

だが、ツアーでは別だった。

1977年3月に始まったツアーで、Frippは時に「Dusty Rhodes」という変名を使い、時には舞台の外から弾いた。暗いところで、観客から見えずに弾く。Frippが出した条件は、ツアーではある程度かなえられた。

さらに、Frippは同じインタビューで、自分の「最初の本当の音楽活動」を、1977年8月のDavid Bowie『"Heroes"』の録音としている。

1976年の秋に、トロントで1stを録音しているにもかかわらず、である。

Frippは、Gabrielの1stを自分の音楽活動に数えていない。

消えたものは二つあった

ここまでの話を並べ直すと、「Frippが存在感を消した」という一つの言い方の中に、二つの別のことが混ざっているのが分かる。

一つは、音である。

アルバムの中で、Frippの音は前に出ていない。Frippはその理由を、自分の想像力の出番が限られ、Ezrinがすべてを仕切ったからだと説明している。そして、その制作のやり方を否定している。

もう一つは、名前と姿である。

Frippは、名前を伏せたかった。ツアーでは、暗いところで、見えずに弾きたかった。こちらははっきり、Frippが自分で望んだことである。

そして、二つの結果は逆になった。

音は、本人が望まないまま、前に出なかった。

名前は、本人が伏せたかったのに、アルバムに残った。

「曲のために自分を抑えた」という説明は、この二つを一つにまとめてしまう。そうすると、誰が何を決めたのかが見えなくなる。

ただし、音が前に出なかった理由について、ここにあるのはFripp本人の説明である。Frippの言葉は、出番を与えられなかった側の言い分として読む必要がある。

それでも、少なくとも次のことは言える。

Frippは、自分がこのアルバムで何かを選んだとは言っていない。

曲の内省は、次の場所で形になった

「Here Comes the Flood」には、続きがある。

Gabriel自身も、1st版には満足していなかった。音楽全体にはおおむね満足していたが、このアルバム、特にこの曲は作り込みすぎた、と考えていた。

1979年の『Sound International』誌で、Gabrielはこう言っている。

『Exposure』の版は、「より少ないものでより多く」をやっているかもしれない。1stの版の、ヴァースはいまも好きだ。でもコーラスの進め方は、いまなら違うやり方をする。

『Exposure』は、Frippが1979年に出した初めてのソロアルバムである。

この曲は1978年3月、Gabrielが歌い、Frippと録り直された。編成は、声とピアノ、Brian Enoのシンセサイザー、そしてFrippertronicsだけである。Frippertronicsは、2台のオープンリール・テープレコーダーを使ってFrippが作った録音の手法である。

Gabrielは、この版のほうが、自分がもともと考えていた編曲に近いと言っている。

1990年には、ベスト盤のためにこの曲をもう一度、声とピアノだけで録り直した。そのとき、Gabrielはこう説明している。

1stの版は、オーケストラを使った大がかりなものだった。ヴァースには気に入っている美しい質感があったが、コーラスは少し大げさになってしまった。その前に、Robert Frippとデモを作っていた。そのあと彼が、デモにもっと近い版を作った。

ここに、この曲のもう一つの経緯がある。

1stより前に、GabrielはFrippとデモを作っていた。1stでは、その曲がEzrinのチームとオーケストラによって大きく作られた。そしてFrippは、自分のアルバムで、デモに近い形へ曲を戻した。

もう一つ、時期を見ておく。

Gabrielが2ndの録音を始めたのは1977年11月、1stのツアーを終えたのと同じ月である。プロデューサーに迎えたのは、ツアーで暗いところから弾いていたFrippだった。

Frippは、自分が2ndのプロデューサーに選ばれたことについて、こう言っている。

Peterは、自分をプロデューサーにするのを恐れていた。自分の制作が「商業的」にならないと分かっていて、それは正しかった。自分はヒットを保証しなかった。自分がしたかったのは、彼を忠実に録ることだった。

1stで「Peter Gabrielの本質を取り逃がしている」と言ったFrippが、2ndで目指したのは、Gabrielを忠実に録ることだった。

演奏家の貢献は、クレジットの外にも残る

Gabrielの1stを、名サイドマンが一歩引いた名盤として聴くこともできる。

ただ、そう聴くと、Fripp本人の言葉と食い違う。

Frippが引いたのは、名前と姿の側である。音の側では、引いたのではなく、出番が無かった、と本人は言っている。

そしてFrippの貢献は、1stのクレジットには残らなかった形で残っている。

1stより前の、Gabrielとのデモ。

名前を伏せ、暗いところで弾いたツアー。

『Exposure』で、デモに近い形へ戻した「Here Comes the Flood」。

そして、Gabrielを忠実に録ろうとした2nd。

演奏家の個性は、アルバムの中で鳴った音だけで測れるものではない。同じ曲が次にどこへ行き、どんな形で録り直されたかにも残る。

目立たない演奏を聴いたときには、抑えたのか、抑えられたのかを分けて聴いてみる価値がある。

まとめ

Peter Gabrielの1stで、Robert Frippの音は前に出ていない。

それを「強い個性が曲のために自分を抑えた」と読むのは、美しいが、本人の説明とは違う。Frippは翌年、自分はこのアルバムに本当はいなかった、すべてを仕切ったのはBob Ezrinだったと語り、その制作を否定した。

いっぽう、名前と姿を消したいと望んだのはFripp自身である。アルバムでは変名をプロデューサーに断られ、ツアーでは「Dusty Rhodes」として暗いところから弾いた。

音が消えたことと、名前を消そうとしたことは、別の話である。

その区別をすると、「Here Comes the Flood」がなぜFrippの『Exposure』で録り直されたのかが見えてくる。曲の内省的な形は、1stではなく、Frippが自分の名前で出したアルバムの中で、デモに近い姿として形になった。

1stのクレジットに名前が残ったFrippは、自分の名前のアルバムで、ようやく音を残した。


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