1977年2月、Genesisを離れたPeter Gabrielが最初のソロアルバムを出した。
題名は無い。のちに、ジャケットの写真から『Car』と呼ばれるようになる。
このアルバムには、King Crimsonを率いていたRobert Frippが参加している。
このアルバムでのFrippは、目立たない参加として語られることがある。
こういうとき、よく使われる説明がある。強い個性を持つ演奏家が、曲のために自分を抑えた。目立たないことも、演奏家の貢献である。
美しい説明である。間違っているとも限らない。
ただ、Frippは翌1978年のインタビューで、このアルバムについてまったく違うことを言っている。
Robert Frippは、Peterの1stには本当はいなかった。
自分のことを三人称で、そう言っている。
本人は「想像力の出番は限られていた」と言った
1978年10月末、Frippはフランスの音楽誌『Best』の取材を受けた。
Gabrielとの仕事が最初の音楽活動だったのか、と聞かれて、Frippは「ある意味ではそうで、ある意味では違う」と答えている。
Robert Frippは、Peterの1stには本当はいなかった。自分はあまり貢献していない。
ツアーに出ることは引き受けたが、それは暗いところで、観客から見えずに弾くという条件付きだった。
自分の想像力の出番は、本当に限られていた。すべてを仕切っていたのは、プロデューサーのBob Ezrinだった。
そして、続けてこう言う。
2ndでは、自分の創造的な役割はずっと大きかった。実のところ、この2枚の違いはFrippである。制作のスタイルがまったく違う。
1stの制作については、さらに強い言葉を使っている。
まったく好きではない。下品で、繊細さに欠け、アメリカ的すぎる。何より、Peter Gabrielの本質を完全に取り逃がしている。
ここで言われているのは、自分を抑えた、ではない。
抑える以前に、自分の出番が無かった、である。
1stは、Ezrinの選手団で作られた
1stがどう作られたかを見ておく。
Gabrielは1975年にGenesisを離れたあと、しばらく家族との生活を優先した。曲を書き始めたのは翌1976年である。
プロデューサーの候補には、Todd RundgrenやJack Nitzscheの名前もあった。最終的に決まったのが、Alice Cooper、Lou Reed、Kissの仕事で知られていたBob Ezrinだった。
二人は制作を分担した。Ezrinは「アメリカ的なリズムセクション」と「とてもロックな部分」を、Gabrielは「よりヨーロッパ的なもの」と「静かな部分」を受け持った。
録音は1976年の秋、トロントのThe Soundstageで行われた。ロンドンのMorganとOlympicでも追加の録音がある。
演奏者の多くは、Ezrinが集めた。ドラムのAllan Schwartzberg、パーカッションのJimmy Maelen、ギターのSteve Hunter。彼らの多くは、Lou ReedやAlice Cooperのレコードですでに一緒に演奏していた。
Gabrielが自分で選んだのは、シンセサイザーのLarry Fastと、Frippである。Gabrielの、音響的な風景を作るような発想を受け持つためだった。
Ezrinは後年、Frippが加わった経緯をこう振り返っている。
Peterは自分と交渉して、英国人を一人入れていいかと聞いてきた。サッカーのクラブがストライカーを欲しがるような、移籍の交渉をしている気分だった。
この言い方は、そのまま当時の構図を表している。
チームはEzrinのものだった。Frippは、Gabrielがその中へ一人だけ持ち込んだ、外から来た選手だった。
トロントのセッションで、Ezrinは首にホイッスルを下げていて、演奏が気に入らないとセッションミュージシャンに向けて吹いた、とFastは回想している。
セッションが終わると、Ezrinは演奏者たちに贈り物をした。Frippに贈られたのは、金のアンティークの懐中時計だった。
「Here Comes the Flood」のリードは、Frippではない
1stの最後に置かれているのが、「Here Comes the Flood」である。
Gabrielが、Ezrinとの最初の顔合わせで聴かせたデモの曲でもある。Ezrinはこの曲を気に入って、その夜は旋律を口ずさみながら寝たという。
1977年版の編成を見ると、Frippのクレジットは「エレキギターとクラシックギター」である。
もう一人、エレキギターにDick Wagnerがいる。
弦はロンドン交響楽団で、指揮はMichael Gibbsである。
この曲のリードギターについては、Wagnerの演奏だとする評がある。いっぽうで、ソロをSteve Hunterの演奏として書いている評もある。どちらの評も、前に出るギターをFrippのものとはしていない。
のちにFrippが自分のアルバムで録り直すことになる曲で、1st版の前に出ているギターはFrippではない。
名前は、Frippが自分で消そうとした
では、Frippは目立ちたかったのか。
そうではない。同じインタビューに、もう一つの話がある。
気難しいという評判について聞かれて、Frippは名前の話をしている。学校から出てきたとき、自分は別の人間になっていたので、名前を変えたいと思った。Robert Frippという名前に付いて回る連想にも疲れていた。
そして、こう続ける。
Peter Gabrielの1stでは、変名を使うことで合意していた。だがプロデューサーが断った。それで最終的に妥協して、自分の名前を使った。
ここでいう学校とは、Frippが通っていたAcademy for Continuous Educationのことである。Frippは同じインタビューで、そこを出た日を1976年7月21日としている。トロントの録音は、その数か月後である。
アルバムのクレジットで名前を伏せることは、かなわなかった。
だが、ツアーでは別だった。
1977年3月に始まったツアーで、Frippは時に「Dusty Rhodes」という変名を使い、時には舞台の外から弾いた。暗いところで、観客から見えずに弾く。Frippが出した条件は、ツアーではある程度かなえられた。
さらに、Frippは同じインタビューで、自分の「最初の本当の音楽活動」を、1977年8月のDavid Bowie『"Heroes"』の録音としている。
1976年の秋に、トロントで1stを録音しているにもかかわらず、である。
Frippは、Gabrielの1stを自分の音楽活動に数えていない。
消えたものは二つあった
ここまでの話を並べ直すと、「Frippが存在感を消した」という一つの言い方の中に、二つの別のことが混ざっているのが分かる。
一つは、音である。
アルバムの中で、Frippの音は前に出ていない。Frippはその理由を、自分の想像力の出番が限られ、Ezrinがすべてを仕切ったからだと説明している。そして、その制作のやり方を否定している。
もう一つは、名前と姿である。
Frippは、名前を伏せたかった。ツアーでは、暗いところで、見えずに弾きたかった。こちらははっきり、Frippが自分で望んだことである。
そして、二つの結果は逆になった。
音は、本人が望まないまま、前に出なかった。
名前は、本人が伏せたかったのに、アルバムに残った。
「曲のために自分を抑えた」という説明は、この二つを一つにまとめてしまう。そうすると、誰が何を決めたのかが見えなくなる。
ただし、音が前に出なかった理由について、ここにあるのはFripp本人の説明である。Frippの言葉は、出番を与えられなかった側の言い分として読む必要がある。
それでも、少なくとも次のことは言える。
Frippは、自分がこのアルバムで何かを選んだとは言っていない。
曲の内省は、次の場所で形になった
「Here Comes the Flood」には、続きがある。
Gabriel自身も、1st版には満足していなかった。音楽全体にはおおむね満足していたが、このアルバム、特にこの曲は作り込みすぎた、と考えていた。
1979年の『Sound International』誌で、Gabrielはこう言っている。
『Exposure』の版は、「より少ないものでより多く」をやっているかもしれない。1stの版の、ヴァースはいまも好きだ。でもコーラスの進め方は、いまなら違うやり方をする。
『Exposure』は、Frippが1979年に出した初めてのソロアルバムである。
この曲は1978年3月、Gabrielが歌い、Frippと録り直された。編成は、声とピアノ、Brian Enoのシンセサイザー、そしてFrippertronicsだけである。Frippertronicsは、2台のオープンリール・テープレコーダーを使ってFrippが作った録音の手法である。
Gabrielは、この版のほうが、自分がもともと考えていた編曲に近いと言っている。
1990年には、ベスト盤のためにこの曲をもう一度、声とピアノだけで録り直した。そのとき、Gabrielはこう説明している。
1stの版は、オーケストラを使った大がかりなものだった。ヴァースには気に入っている美しい質感があったが、コーラスは少し大げさになってしまった。その前に、Robert Frippとデモを作っていた。そのあと彼が、デモにもっと近い版を作った。
ここに、この曲のもう一つの経緯がある。
1stより前に、GabrielはFrippとデモを作っていた。1stでは、その曲がEzrinのチームとオーケストラによって大きく作られた。そしてFrippは、自分のアルバムで、デモに近い形へ曲を戻した。
もう一つ、時期を見ておく。
Gabrielが2ndの録音を始めたのは1977年11月、1stのツアーを終えたのと同じ月である。プロデューサーに迎えたのは、ツアーで暗いところから弾いていたFrippだった。
Frippは、自分が2ndのプロデューサーに選ばれたことについて、こう言っている。
Peterは、自分をプロデューサーにするのを恐れていた。自分の制作が「商業的」にならないと分かっていて、それは正しかった。自分はヒットを保証しなかった。自分がしたかったのは、彼を忠実に録ることだった。
1stで「Peter Gabrielの本質を取り逃がしている」と言ったFrippが、2ndで目指したのは、Gabrielを忠実に録ることだった。
演奏家の貢献は、クレジットの外にも残る
Gabrielの1stを、名サイドマンが一歩引いた名盤として聴くこともできる。
ただ、そう聴くと、Fripp本人の言葉と食い違う。
Frippが引いたのは、名前と姿の側である。音の側では、引いたのではなく、出番が無かった、と本人は言っている。
そしてFrippの貢献は、1stのクレジットには残らなかった形で残っている。
1stより前の、Gabrielとのデモ。
名前を伏せ、暗いところで弾いたツアー。
『Exposure』で、デモに近い形へ戻した「Here Comes the Flood」。
そして、Gabrielを忠実に録ろうとした2nd。
演奏家の個性は、アルバムの中で鳴った音だけで測れるものではない。同じ曲が次にどこへ行き、どんな形で録り直されたかにも残る。
目立たない演奏を聴いたときには、抑えたのか、抑えられたのかを分けて聴いてみる価値がある。
まとめ
Peter Gabrielの1stで、Robert Frippの音は前に出ていない。
それを「強い個性が曲のために自分を抑えた」と読むのは、美しいが、本人の説明とは違う。Frippは翌年、自分はこのアルバムに本当はいなかった、すべてを仕切ったのはBob Ezrinだったと語り、その制作を否定した。
いっぽう、名前と姿を消したいと望んだのはFripp自身である。アルバムでは変名をプロデューサーに断られ、ツアーでは「Dusty Rhodes」として暗いところから弾いた。
音が消えたことと、名前を消そうとしたことは、別の話である。
その区別をすると、「Here Comes the Flood」がなぜFrippの『Exposure』で録り直されたのかが見えてくる。曲の内省的な形は、1stではなく、Frippが自分の名前で出したアルバムの中で、デモに近い姿として形になった。
1stのクレジットに名前が残ったFrippは、自分の名前のアルバムで、ようやく音を残した。
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