バンドのボーカルが替わる。
その話は、ほぼ必ず同じ形で語られる。前の人のほうが良かった。新しい人は力不足だった。あるいは、実は新しい人のほうが上手かった。
どれも優劣の話である。交代を、上下の比較として処理している。
だが、その比較が成り立つのは、バンドが「特定の人が集まったもの」だという前提を置いたときだけだ。置き換わった部品の性能を比べれば答えが出る、という前提である。
当事者の言葉を並べていくと、この前提のほうが先に崩れる。
交代を経験した本人たち、そして交代される側にいた本人たちは、驚くほど優劣の言葉を使わない。代わりに「違う」と言う。
ここには、バンドという単位についての別の考え方が入っている。同一性は固定されたメンバーの一覧ではなく、何を変えてよくて何を変えられないかという、幅のことではないか。
この記事は、その幅を許容領域と呼んで整理する。手がかりにするのは、当事者本人の言葉が残っている4つの現場である。
グループは、メンバーとは別に生きている
King Crimsonは、編成も楽器も作曲の方法も何度も入れ替えながら続いてきたバンドである。同じ名前のもとに、まるで別の音楽が並んでいる。
このバンドを続けてきたRobert Frippは、グループというものをかなり明確に定義している。
本物のグループは単数であり、メンバーとは別に、それ自身の生命を持った独自の同一性を持つ。メンバーの総和はグループそのものではない。Frippはそう述べている。
これは比喩ではなく、運営上の定義として読める。
Frippはさらに、グループはある目的に奉仕するために形成されるのだと言う。1969年のCrimsonの目的は「世界最高のグループになること」だった。ただしそれは、大衆文化のなかでは「世界で最も成功したグループになること」と簡単に取り違えられる。そして取り違えた時点で、音楽のほうが忘れられ、見失われうる。
目的が先にあって、人はそれに奉仕する側にいる。だから人が入れ替わっても、目的が生きているかぎりグループは同じグループである。
この定義を採用すると、King Crimsonの激しい変化は説明が要らなくなる。変化しているのはメンバーと語法であって、奉仕する対象ではない。むしろ、変化しないことのほうが目的への裏切りになりうる。
1981年の編成が出した『Discipline』は、その極端な例である。前の時代の音響も演奏語法もほとんど残っていない。それでもこれはKing Crimsonとして受け止められた。
変化そのものが、このバンドでは約束になっている。次に何が来ても、それがこのバンドだと受け取る準備が、聴く側にもできている。
言い換えれば、King Crimsonは許容領域が異常に広いバンドである。声も、楽器編成も、作曲法も、変数として開いている。
では、その領域が狭いバンドはどうなるのか。
バンドの同一性は、いくつの変数でできているか
先へ進む前に、何が動きうるのかを分けておきたい。
バンドの同一性として聴かれているものは、少なくともこれだけの要素に分かれる。
声。作曲を担っている人間。各楽器の語法、つまりリフの組み方やフレーズの置き方。音響、つまりどういう音像で録られているか。人物像、つまりそのバンドが外から見えている姿。ライブでの形。そして、過去作との連続性。
これらは独立した変数ではない。
声を替えれば、書かれる曲が替わる。曲が替われば、リフの置き方も、必要な音像も動く。音像が動けば、ライブでの見え方も変わる。連鎖する。
だから「ボーカルが替わっただけ」という言い方は、ほとんどの場合で正確ではない。ボーカルの交代は、たいていそれ単独では終わらない。
逆に言えば、1人の交代でどこまで連鎖するかは、バンドによって大きく違う。連鎖が少ないバンドもあれば、1人動かすと全部動くバンドもある。
この連鎖の範囲こそが、許容領域の実体である。
そして重要なのは、この領域を決めているのがバンドの内側だけではないことだ。聴く側が何をそのバンドの証だと思っているかも、同じ領域の一部として働いている。外側が「これが無ければあのバンドではない」と思っている変数は、内側から見れば動かせない変数になる。
1994年のMötley Crüeで、何と何が分離したか
John Corabiは1992年に、Vince Neilの後任としてMötley Crüeへ加入した。Neilは個人的な対立を理由に解雇されている。
Corabiをボーカルに据えて作られたフルアルバムは1枚だけである。1994年のセルフタイトル作。
この作品は批評的に高く評価された。同時に、グランジ全盛期のなかで商業的には失敗作とされた。アルバムチャートのトップ10に入ったにもかかわらず、である。
1997年にNeilが復帰し、Corabiは一人で離れることになった。
ここで起きたのは、単純な「失敗」ではない。音楽的な評価と、バンド名としての受容が、別々に動いた。
作品の側は評価された。バンド名の側が受け取られなかった。この2つが同じ1枚のうえで分離している。
ドラマーのTommy Leeは、2020年のインタビューでこの作品を自身のお気に入りの1枚に挙げている。素晴らしいレコードだ、曲も音も、と語っている。
さらに重要なのは、そのあとに続く発言のほうである。
Leeは、Corabi期の曲をNeilのボーカルでライブ演奏することの難しさについて語っている。試してはみた。だが、誰かが歌った曲を別の誰かが歌うのは難しい。それはカバーをやるようなものだ、と。
これは、交代を「置き換え」として扱えないことの、最も具体的な証言である。
部品の交換なら、元の部品に戻せば元へ戻る。だがこの場合、戻らない。Corabiのために書かれた曲は、Corabiの声と不可分になっていて、オリジナルのボーカリストが歌ってさえ他人の曲になる。
つまり、バンドの同一性を構成する変数のうち、声は単独の変数ではなかった。作曲と結びついていた。声を替えれば曲が替わり、曲が替われば元の声も適合しなくなる。
ここには非対称がある。
交代の前後は、行きと帰りで同じ道ではない。新しい人を迎えるときには、その人に合わせて曲を書き直すことができる。だが元へ戻すときには、書き直されたあとの曲がもう残っている。戻す作業は、消す作業ではない。
バンドの歴史は、蓄積する方向にしか動かない。だから交代は、一度やると取り消せない種類の判断になる。
Mötley Crüeは、成功のなかで人物像と声と曲を強く一体化させたバンドである。一体化が進むほど、動かせる変数は減る。
許容領域は、バンドの歴史のなかで勝手に広がるものではない。むしろ、成功すればするほど狭くなることがある。
売れたバンドは、自分が何であるかを市場へ強く宣言してしまっている。宣言が強いほど、それを裏切ったときの反応も強くなる。King Crimsonが動けたのは、動くこと自体を宣言の内容にしていたからで、これは順序として先に済ませてある。
前任者が「悪い」とは言わなかった現場
Joey BelladonnaはAnthraxを解雇され、John Bushが後任になった。
1993年の『Sound of White Noise』以降のAnthraxは、声だけでなく音響設計もリズムの重心も動いている。変更量としては、かなり大きい交代である。
Belladonna本人は2017年のインタビューで、この時期について語っている。
彼らが何を目指していたのかは分からない、90年代的な何かへ向かっていて、自分はその人ではなかったようだ、と述べている。
そして、音楽そのものについてはこう言う。音楽的な面は良かったと思う。Johnもまともだ。ただ全体として、自分たちにはクールなものがあったと思っていて、そこは聴こえてこなかった。だがそれは、良くないという意味ではない。自分の考える「より良い」ではなかったというだけで、単に違うものだった、と。
ここで使われているのは、優劣の語彙ではない。差異の語彙である。
解雇された当人が、自分を外した先の音楽について「劣る」とも「間違い」とも言っていない。良し悪しの軸と、自分の考える方向かどうかの軸を、意識的に分けている。
以下は、前任者Belladonnaの側の言葉から見た構図である。
Iron Maidenでは、選ぶ側が「違う人」を選んでいた
Blaze Bayleyは1994年から1999年まで、Iron Maidenのフロントマンを務めた。
在籍中の2作、『The X Factor』と『Virtual XI』は、それ以前の作品より大幅に売上を落とした。自国イギリスでのチャート順位は、1981年の『Killers』以来で最も低い。
数字だけを見れば、これは失敗である。
だが本人の言葉は、その数字とは別のところにある。Blazeは2019年のインタビューで、史上最高のヘヴィメタルバンドの一つで歌う人間に自分が選ばれるとは思ってもみなかった、それは大きな名誉であり、とても楽しかった、と振り返っている。
そして、前任者であるBruce Dickinsonの言葉が、ここへ重なる。
Dickinsonは、Blazeのために喜んだとしつつ、ほかにも本当に良い歌手は大勢いたと述べている。自分の声ができたことをできる声の持ち主を選ぶこともできたはずだ、と思った。だが彼らはBlazeを選んだ。明らかに、違う人間を選んだのだ。そしてそれには、それ自身の困難が伴った、と。
この発言は、交代についての見方を一つ動かす。
Dickinsonは、バンドが自分の代替を探していたのではないと理解している。同じ機能を果たす部品ではなく、違う機能を持つ人が選ばれた。だから後任には、前任者と比較される以外の困難が最初から存在した。
「違う人を選んだ」というのは、選ばれた側の資質の話ではない。選ぶ側の意思決定の話である。
無関係な2つの現場で、前任者の言葉が一致している
ここまでを並べると、一つ気づくことがある。
AnthraxのBelladonnaと、Iron MaidenのDickinson。この2人に接点はない。バンドも、ジャンル内の位置も、交代の経緯も違う。片方は解雇され、片方は自ら離れている。
それでも、自分の後任について語るときの語彙が一致している。
どちらも「劣る」と言わない。どちらも「違う」と言う。
Belladonnaは「それは単に違うものだった」と言い、Dickinsonは「彼らは違う人を選んだ」と言う。前者は結果としての音楽について、後者は選択としての人事について語っているのに、着地点が同じところへ来る。
この一致は、偶然の言い回しとして片づけないほうがいい。
交代の現場に実際にいた人間が、外から見ていた人間よりも先に、優劣の軸を降りている。降りたうえで、差異の軸で語っている。
なぜ外側は優劣で語りたがるのか。
一つには、優劣のほうが結論が出るからである。差異で語ると、どちらが良いかは決まらない。決まらない話は、議論として終われない。
もう一つは、聴く側が自分の聴取歴を守ろうとするからだと思う。ある時期のバンドを好きになった人にとって、その時期が「別のものの一つ」でしかないと認めることは、自分の体験の位置を動かすことになる。優劣の言葉は、それを動かさずに済ませてくれる。
だが交代の現場にいた本人たちには、その動機がない。彼らは自分の体験の位置を、すでに一度動かしている。
外側の議論は、いまだに優劣で動いている。売上が落ちた。ファンが離れた。だから失敗だった。旧メンバーが復帰した。だからあれは間違いだった。
だが売上も、ファンの拒否も、旧メンバーの復帰も、音楽的価値の判定ではない。それらは市場とブランドと文化の側の反応であって、作品の側の評価とは別の系統で動く。Mötley Crüeの1994年が、まさにその分離を1枚のうえで見せている。
許容領域という考え方
ここから、整理ができる。
バンドの同一性は、メンバー数でも、特定個人の在籍でもない。声、作曲者、器楽の語法、音響、人物像、ライブの形、過去作との連続性といった変数の集合がある。
そのうち、どれをどこまで動かしても「同じバンド」として受け取られるか。その範囲が、バンドごとに違う。
これが許容領域である。
King Crimsonは、変化することそのものを約束にした。だから領域が広い。何を動かしても、動かしたこと自体が同一性の証明になる。
Mötley Crüeは、特定の人物像と声と曲を強く一体化させた。だから領域が狭い。声を動かすと、作曲も音響も人物像も連鎖して動いてしまう。
そして領域の広さは、バンドの選択だけで決まらない。レーベル、市場、ジャンル文化、その時代のファンの期待が、同じ交渉の場に座っている。1994年のMötley Crüeは、グランジ全盛という市場条件のなかで判定を受けた。
領域が狭いバンドが交代に直面したとき、やれることは大きく2つしかない。
新しい人を生かすために、システム全体を動かす。曲も音響も人物像も、新しい人に合わせて組み替える。Mötley CrüeのCorabi期は、こちら側だった。音楽としては成立したが、バンド名としての受容から外れた。
もう一方は、システムを守って、新しい人を既存のフォーマットへ合わせる。この場合、バンド名は守られるが、新しい人は前任者の関数として評価され続ける。
どちらにも失敗の可能性がある。そして、どちらを選んだかは、外からは音でしか見えない。
交代した現場で、当事者は何を持ち帰ったか
交代の話は、失われたものの数え上げになりやすい。声が失われた。売上が失われた。時代が失われた。
だが、当事者の言葉を並べてきた結果として残るのは、そちらではない。
Tommy Leeは、キャリアのなかでお気に入りに数える1枚を持ち帰っている。商業的には失敗とされた、あの1994年の作品である。数字の評価を知ったうえで、25年以上たってから、あれは本当に素晴らしいレコードだったと言っている。
Blaze Bayleyは、自分が選ばれるとは思っていなかった場所に立った5年間を、名誉であり楽しかったと振り返っている。チャート順位は1981年以来の低さだったが、それは本人が持ち帰ったものの内訳には入っていない。
Joey Belladonnaは、自分を外したバンドの音楽を「違う」という言葉で位置づけられるようになった。解雇された人間が後任期を語るとき、これはかなり難しい語彙である。そして彼は後に、同じバンドへ戻っている。
Bruce Dickinsonは、自分の不在のあいだにバンドが何をしようとしたのかを、自分の代替探しではなく別の選択として理解している。
4人とも、交代を損失の一覧としては語っていない。
聴く側にできることも、たぶんここにある。メンバーが替わったバンドを「別のバンドになった」で片づけるのは早い。何が変わったのかを、声、作曲、語法、音響、人物像に分けていくと、そのバンドがどこまで変われる場所だったのかが見えてくる。
そして、変われる幅を知ることは、そのバンドがこれから何をやっても付き合える、という準備になる。
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